会誌「房総の昆虫」掲載記事の話題性 (2015年12月4日付 掲載)
昆虫関係の月刊誌「月刊むし」では、年に1回、学会誌や同好会誌に発表された各分野の取りまとめが行われる。種の記載を始め、分布や生態、刊行物など、話題性のある記事が取り上げられる。今年は、5月号に「2014年の昆虫会をふりかえって」という表題で、蝶界、トンボ界、蛾界、甲虫界、アマチュア界について、それぞれ紹介されている。通読していて気がついたのだが、「房総の昆虫」に掲載された記事がけっこう引用されている。蝶では、ルーミスシジミ、ウラギンヒョウモン、オオムラサキ、モンシロチョウが、トンボでは、セスジイトトンボ、ナゴヤサナエを始めとした各種の記録、蛾ではクロメンガタスズメ、カトカラ3種の記録が紹介されている。甲虫では新種と分類群の変更、書籍の紹介が主で、残念ながら個別の記録紹介はない。
紹介記事は、どうしても学会誌や全国誌の記事が多い。地方同好会誌の紹介数を比較したわけではないが、この中で「房総の昆虫」は頑張っているな、という感じを受けた。これからも分布記録や生態観察記録など、どんどん発表していきましょう。(斉藤 修)
[NL.102]
「昆虫ニュース千葉」100号の歩み (2015年10月3日付 掲載)
2015年5月6日発行の「昆虫ニュース千葉」は100号と言う記念すべき節目を迎えた。それは1993年の1号発行から22年の歳月を経ている。1989年に千葉県昆虫談話会(千葉昆)が発足してからは採集調査会の企画、例会、総会・忘年会など順調な活動を行ない、1990年12月には会誌「房総の昆虫」が発行され活動報告などは同誌に「事務局ニュース」として掲載していたのである。会誌に掲載されたニュースは1995年の同誌13号まで続くのである。元々会誌の発行については事務報告なども含む連絡誌としての機能も備えた企画として考えていたものであり、「千葉県昆虫談話会連絡誌」0号として発行したものの、掲載内容から研究誌としての特徴を有していることから連絡誌を廃刊とし、新たに会誌「房総の昆虫」として再発行された経緯がある。ニュースレターのスタートは1993年であるが当初は会員に対して事前に企画された活動や事務連絡などを専門に掲載した連絡誌の必要性が検討され、1992年の総会前の幹事会で発行が企画され、年明けに1号を発行することが決定された。当時代表幹事であった松井会員が編集し発行することになったのであるが、会誌タイトルも決まっていない状態でのスタートであった。会誌名は会員より募集することにして、1993年4月18日に開催された第19回例会で会員より募集したタイトルの中から投票で決定されたものであり、同年6月発行分(3号)から「昆虫ニュース千葉」という名称が使われるようになった次第である。当初から2年間ほどの発行は緊急連絡的な性格が強く、会務報告も会誌への掲載となり、内容も両誌合わせて見る必要があったのである。編集の側面から辿ると松井会員には2007年発行の68号まで長期間編集をされ、この間代表幹事も2名の交代があり37号(2000年)と61号(2006年)に新代表幹事の挨拶が掲載されている。69 号(2008年)から編集を城田会員にバトンタッチされ、経費節約の観点からニュースレターの本格的なメール配信が企画され、会員諸氏にご理解と協力を呼びかける案内が掲載されている。更に千葉昆公式ホームページについての提案も掲載されていて誌面の刷新もあったことから、新たな雰囲気のニュースレターが誕生したのである。その後、編集は77号(2009年)から内藤会員、代表幹事が木勢会員になった80号(2010年)からは斉藤会員に引き継がれ現在に至っている。
次に掲載内容から100号までを振り返ってみると29号では千葉昆初の長期調査である「みんなで調べよう身近な昆虫20種」の企画が紹介され、対象種20 種のリストが掲載されている。31号(1998年)では日本鱗翅学会関東支部と共催で1998年11月8日に開催の「秋の集い」の案内があり、当会から4名の演者と講演タイトルが示され、32号で報告が掲載され他会との初めての共催が行われたことを紹介している。63号(2006年)では県立中央博物館を会場に開催され千葉昆が後援する日本鞘翅学会(現甲虫学会)第19回大会の案内が掲載され、64号に開催報告があり、会員が実行委員として尽力されている様子や多くの参加者があったことなどが窺えるものであった。2009年から始まった清澄調査会は東京大学千葉演習林内での昆虫相調査で75号(2009年)に調査会の案内が掲載されている。千葉昆で企画された初めての本格的な昆虫相調査であり、調査結果は「房総の昆虫」47号に特集号として発行され、房総の昆虫相を解明する資料として高い評価を得ることが出来た。76号(2009年)では鈴木・城田両会員による「県南部で猛威を振るうクロマダラソテツシジミ」と題した記事が掲載されていて、南房総で猛威を振るう本種の様子が伺えるもので、この様な内容の記事が掲載されることがなかったことから印象深い記事であった。その後、81号(2010年)では斉藤会員のクロメンガタスズメの記事や89号(2012年)の千葉昆Tシャツの話題がみられたものの、この手の記事が極めて少ないのも特徴となっている。93号(2013年)では西会員をチーフに立ち上げられた高宕山昆虫相調査会の案内が掲載され、本格的な調査がスタートしたのである。2014年には県立中央博物館で開催された自然誌フェスタの企画に参加した様子が木勢会員により98号(2014年)で報告され、展示や企画など盛況のうちに終わった様子が紹介されている。このフェスタは後日若手会員獲得につながったこともあり大成功と言えるものであった。この様に誌面から千葉昆の歴史を追うことが出来るものの、100 号までの歩みは概ね会務報告中心の誌面構成で発行されて来たものであった。
連絡誌(ニュースレター)の掲載内容は企画された事案(例会・採集会等)の案内と報告、事務連絡、会員の動静、有意義な情報の提供など多岐に渡るもので会員との意思疎通を図る上でも適切な時期に発行することが求められるものである。編集に携わった方々の尽力により、目的は達せられているものの、今後は誌面の内容を深化して会員諸氏からの投稿を増やし「房総の昆虫」で取り扱わない幅広い話題(千葉県以外の採集記(※)やエッセイなど)を掲載して頂ければと期待するものである。(大塚市郎)
(※)「昆虫ニュース千葉」は非文献ですので、引用文献としての使用は出来ません。重要な記録の伴う内容については適切な媒体(他の会誌や雑誌等)に寄稿することが肝要です。
千葉昆のTシャツを作ってみました (2012年10月6日付 掲載)
前から欲しかった千葉昆のTシャツを作ってみました。デザインは、ルーミスシジミとボウソウマイマイカブリにしました。白地のTシャツとアイロンプリントペーパーを買ってきて、インクジェットプリンターで早速作成。ただ、千葉県昆虫談話会の英名表示がなかったので、とりあえず勝手に製作しました。原価は1 枚700円程度でしょうか。意気揚々と9月のサロンに着ていったところ、つづりが違うという意見が出ました。私は埼玉昆虫談話会などを参考にして、Chibaken Kontyu Danwakaiとしましたが、昆虫は「Konchu」ではないかというものです。埼玉の場合はKontyu を使っていますし、日本昆虫学会の以前の会誌もKontyu でしたので、何の疑いも持たなかったのですが、千葉をChibaとヘボン式でつづった場合には昆虫も「Konchu」とすべきなのでしょう。訓令式ならKontyuでいいのですが、千葉をTibaにしなければなりません。埼玉の場合はSaitamaで、ヘボン式も訓令式も一緒ですので問題はありません。千葉はやはりChibaでしょうから、次からはKonchuにすることにします。それにしてもこれまでの出版物のどこかに千葉県昆虫談話会の英名表示がないのでしょうか。(斉藤 修)
報文のデータ記載について (2011年10月2日付 掲載)
私が以前から疑問に感じていたことを少々述べさせていただく。過去の編集幹事時代に、私のアサマイチモンジの記録の中で、はじめは単純に飼育羽化数とデータのみを呈示したが、校正の段階で編集幹事から「その時の採卵、採幼数は?」と聞かれ、殆どうろ覚えの状態で急遽記載させられる展開となったが、採卵、採幼数などがそれほど重要とは全く考えておらず、今現在に至っても、特にメモとかも取っていない。判れば記載した方がより精確となるのは明白だが、標本として現存している旨の明記だけで十分かと私は考えている。また、中には私をはじめ、採卵、採幼数のみが記された報文なども見られるが、きちんと羽化させた標本があるのであれば、そこまでのデータを呈示すべきであろう。飼育が失敗し、羽化にまで至っていないのであれば、それも付記すべきではなかろうか。この点に関しては、私も自身の掲載された報文で、言葉足らずだったのには反省している。結局のところ現存する標本もしくは撮影データが無ければ、その産地での証明ができず、記録的に見ても問題が残るし、いささか引用もし難くなるであろう。そのような意味で私は標本や撮影データこそがやはり最重要との認識を持っている。この件については個人により感じ方等は当然異なるであろうが、何か統一性があっても良いのではないかと思い、少し私個人の意見を述べさせていただいた。ちなみに全国誌での取り扱いは結果のみとなっているようである。(鈴木智史)
房総の昆虫怖い (2008年11月30日付 掲載)
落語に「饅頭怖い」というのがある。威勢のいい職人がいて、怖がるものがないので、仲間はいつか困らせてやろうと思っている。たまたま、仲間の集っている所に行ったとき、「怖いものは何だ」と聞かれて、好物の饅頭が怖いという。仲間はそれでは、あいつにいやがらせをしようと部屋に案内し、そこに饅頭をたくさん持ち込む。威勢のいい職人はみんなのいる前では、饅頭怖いと震えて見せる。人がいなくなるとそれを食べる。しばらくして仲間が部屋を覗くと「お茶が怖い」、というオチがつく。
「房総の昆虫」の記事は殆どが千葉県関係なので、ここに掲載されている千葉県関係のタイトルのルーズリーフノート(カード)を作り、保管している。甲虫類は1種ごとにルーズリーフノート(カード)を作成してあるので、そこに書き加えていく作業がある。これに時間がとられるのでできるだけ遅いほうがいいと思うのは私だけであろう。その反面、千葉県からどのような昆虫の報告が為されたか知りたく、待ち遠しい。私がしているのは、ルーズリーフノート(以後カードという)の大きさはA5、12穴、A罫(7㎜間隔)を用い、タイトルは分類群ごと、著者ごと、発行年順にバインダーノートに挟んで整理しておく。甲虫を含む複数の目が記載されている場合は、2枚作り、1枚を甲虫用にして他は、総合扱いをする。甲虫類の種ごとカードの大きさも同じで、最上行の中央に学名、1行空けて和名、その次にまた3行空けて、著者名に続けて発行年、誌名、巻(号):ページ、産地を記入する。このカードを見れば、1件ごとに、文献が分かるので、別に作成した文献カードを見て、もとの書籍や雑誌に当たれるようになっている。バインダーは種類数の少ない科は数科まとめ、口取り紙で科の索引を作り、また、最初のページにどのような科があるか目次をつけておく。オサムシ科、コガネムシ科、ハムシ科、ゾウムシ科は種類数が多いので2冊になっている。科の配列は甲虫図鑑(保育社)に準じている。いずれにしても、なかの種の配列は検索しやすいように、和名のアイウエオ順、和名がない場合は、属名のABC順に最後の部分に並べてある。科のカードを分類順、または目録順にするときは、カードの右上に亜科名や族名を鉛筆で書き、並び替えの作業が済んだらもとにもどす。「房総の昆虫」の場合、千葉県関係のタイトルは1つの号で30~40項目であり、以前は手書であったが、34号からはPC(パソコン)にワープロソフト・ワードを使い入力して、それが終了したら、それを1項目ごと各1枚のカードに印刷する。甲虫は短い報告文の場合はそれをコピーして貼っておくと、後で調べることが生じたとき楽である。甲虫は1種ごとのカードに記入するのに、時間がかかる。例えば100種あればその該当種のノートを100回開き、著者、発行年、文献名、記載ページ、記録場所を記入していく。発表誌に記録が多い場合はそのゴム印を作り利用する。例えば「房総の昆虫」の場合は“房総の昆虫( ):”のゴム印を作り利用する。100種を越す報告書の場合は、その誌名のゴム印を作ると速く作業ができる。
千葉県産の甲虫のカード作りを始めたのは1967~1968年と思う。それより以前にゴミムシダマシ科の種ごとのB5、26穴ルズリ-フノートを使ったカードを作っていた。当然、文献リストは作っていた。紙質は当時中性紙がなかったので酸性紙である。現在は中性紙を使用している。それは、当時紙の劣化など話題にならないし、そのようなことを考えも及ばなかった。そろそろ年齢なので、そのときが来たら、千葉県関係のノートは県立中央博物館の図書室に寄贈しようと決めている。コピーして、それをある所に分けて置くことを考えたが、そこに置くのは無駄なので止めた。
昆虫の採集と分類がしたくて大学に行った。入学してすぐ昆虫研究室に入り、机をもらう。入学の年のゴールデンウイークには先輩の実家に泊まり採集に出かけるなど、採集人生が始まる。研究対象の昆虫群が決まると、文献集めが始まる。春~秋は採集が忙しいので、冬になると行動を始める。それは「三橋ノート」を写すことから始まる。これを基に原記載を集めと、三橋ノート以降の文献探し。公的研究機関や他の大学の研究室へ行くときは、研究室の先生には先方に連絡をしていただき、先生の名刺を持って出かけた。「三橋ノート」とは、日本の昆虫類全ての種の内外の記録を種ごとにノートに記録されているものである。したがって、原記載を知り、国内の記録を知るためには重要なものである。いわゆる分類屋が避けて通れないポイントである。「三橋ノート」を写すには、まず、長谷川仁さんのところを訪れ、お願いする。「三橋ノート」は農業技術研究所昆虫科の部屋に収蔵されている。門外不出で、図書室にも持ち出すことができない。したがって、このノートを写す場合は皆さんが働いている隅の空いている机を貸していただく。写すとは手書で、原本を汚さないよう鉛筆でノートをとることである。万年筆では、インクを飛ばす恐れがあるので使用しない。1955(昭和30)年頃は、どこでも冷暖房はなく、冬の事務所は暖房に煉タン火鉢があればいい程度。オオバーコートを羽織って震えながらの作業、昼食は西ヶ原に行く途中で購入したアンパンなどをかじりながらである。部屋の方々に顔を覚えてもらえる頃には仕事は完成する。当時の、農業技術研究所は東京都北区西ヶ原にあったので、「西ヶ原」といえば農業技術研究所を意味し、昆虫関係者は昆虫科を指した。私が作成している千葉県関係の甲虫の各種ごと、各目の文献カードだが、他の分類群も同じようなカードを作る人が出ることを望みたい。(山﨑秀雄)